「好きを言語化する技術」 著者 三宅香帆
この本は、僕の胸の奥のモヤモヤを向き合うきっかけをくれる一冊でした。
そのモヤモヤがなんなのか分からないまま、歳ばかり重ねてきたな。
自分の好きなことがある。そんな時にどんな言葉ならこの気持ちを伝える事が出来るのかと考える事が沢山あります。なにかに感動したときに「すごい」や「やばい」だけで何かを伝えるのは、とても勿体ない事だなってこの本を読んで改めて感じた。
自分の中にある感覚を上手く表現出来ないという理由だけで、誰かの意見と同じようにしてしまったらこんなにも自分が感動しているんだって事が自分自身が気づけなくなっていくから。
でも、そんな事言ったって分からないものは仕方ないと諦める事の方が楽なのは間違いない事でもある。
そうすればそれ以上に考える事もなくからそれで終えれてしまうから。
すぐに次の興味をもった事に向かっていけるから。
でも、昔から少しだけそんな自分に違和感を覚えていた。
そんなに多くの興味を持つのはいいけど、今の眼の前にある事はもうどうでもいいの?
本当は、この感じた感覚を誰かにも分かってほしいって思っていたんじゃないのか?
この本の中では、自分が伝えたいことを掘り下げるの重要性が書かれていました。
誰かの感想を読んで、”なんとなくそんな感じ”だよねと自分がその意見に合わせてしまっているなと分かった。
自分が好きなことが世界中の人も共通して同じなんてことはないわけである。
自分が好きじゃないことでもこの人はものすごく楽しそうに話をするな。
何がこんなにも楽しいんだろうか?どこに関心があるのだろうか?そんな風に細かく、その事を考えると、それまで興味がなかったはずの事がなんだか面白く感じるようになるかもしれない。
はじめの書き出しもとても大事なことだと書いてある。書き出しから興味がそそられるものでないと、この次を読んでみたいなという気持ちが起こることもない。
それは、本屋で本を選ぶ時に表紙のタイトルや背表紙を見ている時の感覚と近いものを思う。
この本を開いたらどんな事がかいてあるのかなって時のあの感覚が好きだ。
それが自分の求めているようなことでなくても、なんとも言えないワクワク感がたまらない。
だからこそ読んでいる人が次にも読みたくなるようなワクワク感がある書き出しを考えていきたい所だが、そんなにもいきなり上達することもない。
とりあえず、他の人ものを参考に自分にできそうな部分を真似ていこうかな。
この本の最後のあとがきにもあったが今の現代では、何もしていなくても多くの情報のなかにいます。そんな中で自分の言葉を使わないでいると、他の人が言っている事が正しいと考えるクセがついてしまうのではないか。
本当は、こんな所がよくて……前とはこんな所が違っていてね、そこに至るまでにはこんな事があってね。みたいな事を熱く語ろうものなら周りからつまはじきにされるのではないかと考えて自分の中にある声を押し殺してしまう事が当たり前に変わってしまうのではないかと危惧してしまう。
うまく言葉にならなくても、誰かに否定されてもいいと思う。
自分が感じたことを素直に思える方がいいから。
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