「意識高いな~」と言われることがある。
それは本人がそこまで意識していなくても、周りから見ると一つ抜きん出ているように感じるときに使われることがある。
例えば、普段から読書をしていると、「なに、そんな難しい本読んでるの? 意識高いわ~。なんていう本? タイトルで頭が変になりそう」などと言われることがある。
しかし、難しそうな本を読んでいるからといって、その人が本当に意識的に「難しい本を読もう」と思っているとは限らない。
読書は自慢するようなものでもないし、本人にとっては単なる習慣かもしれない。しかし、他人から見ると「本を読んでいる」という行為自体が「意識高い」と判断されることがあるのだ。
意識とは、目の前のことに集中することではないだろうか? そう考えると、意識していないことのほうが多い気もする。例えば、本を読んでいても、ページをめくりながら今日の夕飯のことや最近ハマっている漫画のことを考えていることがあるからだ。
では、意識と無意識の境はどこにあるのだろうか?
かつて、エベレスト登頂を目指した登山家が取り残されてしまったことがあった。彼は滑落し、仲間からは死亡したと思われていた。そのため、救助されることなく、過酷な環境に取り残されてしまったのだ。
しかし、滑落した先で彼は生きていた。だが、足を負傷し、その場で動けなくなってしまった。普通ならば、そのまま人生の最後を迎えることになったかもしれない。だが、彼は諦めなかった。「このままでは終わってしまう」と、一歩一歩前に進むことだけを考え、小さなゴールを目指して歩き始めたのである。
これは「意識している」と言える状態ではないだろうか? もしかすると、無意識でいたならば、「もう歩けない」と諦めてしまったかもしれない。
では、逆に「無意識」とは何か?
それは、普段の日常の中で行う行動に現れる。例えば、ご飯を食べたり、歯を磨いたり、靴を履いたりする行為がそれにあたる。
無意識で行うことが多いため、思わぬ行動につながることもある。
例えば、「ながら食べは良くない」とよく言われる。それは、食事中に他のことに気を取られると、食べるという行為に意識が向かなくなり、結果的に必要以上に食べてしまうからだ。その結果、肥満につながることもある。
逆に、食事の際に「ゆっくりと味わって食べる」ことを意識すれば、満足度を下げることなく食事を楽しめる。
話を最初に戻すと、「意識が高い行為」というのは、自分では気づきにくいものだという結論に至る。つまり、
• 意識している=他人軸
• 無意識=自分軸
という関係が成り立つのではないか。
意識することで成果を上げられれば、人はどんどん意識的に努力し、やりたいことを実行していく。
しかし、成果が出ないと、その行為を続けることが辛くなることもある。
理想的には、意識せずとも物事がうまく進むようになればよいのだが、実際には人間はそう簡単にはできていない。
できなかったことを意識し続けることで、やがて無意識のうちにできるようになる。この繰り返しによって、人は成長していくのだ。
だからこそ、苦労した経験や学びが自分の糧になる。意識は完全に捨て去ることのできないものであり、無意識の領域に持ち込むためには、できるようになるまで意識し続け、向き合うことが大切なのだ。
意識の向こうに無意識がある。
その繰り返しによって、人は前に進む。初めから驚異的な速さで走れたり、計算が異常に速かったり、記憶力が抜群だったりする人には、ただそれだけでは魅力を感じない。
そうした才能を持っている人が、それゆえに悩み、苦しみ、向き合い続けたからこそ、多くの人に称賛されるような素晴らしいライフストーリーを築いていくのだろう。
今は意識していないことでも、いずれ年を重ねたときに、「あのとき、こうしておけばよかった」と意識することがあるかもしれない。
だからこそ、意識していない今の経験こそが、将来の自分にとって何にも代えがたい価値を持つのではないだろうか。
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