人は、くっついたり、離れたりする。
そんな様子を見て誰かがまるで磁石のようだなと言った。
磁石には、S極とN極という2つがある。S極にN極を近づけると引き合うかのようにくっつくことが出来る。
それは、双方がお互いにバランスの良い状態で今まで2つだったものが、まるで初めから一つであったと思うくらいに互いを認め、重なり合う。
逆にS極とS極を向けると、お互いが常に一定の距離のもと絶対にくついってなるものかと離れていく。
人も同じだというのなら、S極とN極が完璧に向いていれば、それ以降もなにも起きないはずである。
それでも、周りの環境や人間関係によって、お互いの結びつきに変化が生まれる。
お互いが認めたくない事が出てくる。受け入れられない事も出てくる。そんな気分でなくても。
なぜなら、人間が生きる世界には、S極とN極がたった2個あるだけではないから。たった2個の世界ならお互いを信じて生きる以外に長く生き残る術がないのかもしれない。
実際の世界では、S極が多かったり、N極が少なかったりする。その逆もあったりと自分が思っているよりも複雑なもの。
自分と同じで共感してくれているなあと思っていたのに、実際は、その場で合わせていてるだけだった。
隣でこちらの意見を「うん、うん」と聞いてくれている人は、こちらの顔を見ていない。
信頼しているとは、お互いがお互いの顔を見合わせるような状態になる。それは、S極とN極が結びつくような。
全てが自分の思うような選択が出来るのなら悩むこともない。そもそも悩む原因がないのだから考えることもない。
そうやって考えてみると、悩めるというのは、とても素晴らしい事なのかもしれない。自分が何かぶつかってそれを解決したいと思う時に自分が持っている限りの知恵を絞って考えを巡らせる。
その時に出てきた答えは、他の人からは「違う!そんなじゃないよ」と否定されても悩んで得たものに大きな価値がある。
決まった答えのものを求めた時に違う答えを出したときには、違うだろうけど……答えのない世界で自分ならどうするか?悩んで、悩んで、出てきたものがなんであろうとそれでいい。
自分と誰かがぶつかる。
なんで、もっと早く言わなかったんだ。と相手を責めて。
なんでもっと早く気づかなかったんだ。と自分を責めて。やり場のない怒りをどこに向ければいいのか、と悶々する。
でも、本当にそんな事で何かが解決するのか?
S極の反対は、N極である。自分が見ている方が一部であり、相手の見えていない顔を見たら、今までと違う風に感じるんだろうな。
相手の事を知っていると思っていても本当は、無理にこちらに合わせていると考えてしまうと、なんだか悲しくなるな。
「大丈夫だよ。このくらい平気だから」そう言われると安心している自分がいる。
「本当に?」と聞いた所で返ってくる答えは決まって「うん、大丈夫」
それ以上、考えた所でその答えがどちらであろうと平行線を辿るだけ。
考えれば、考えるほどに分からなくなってしまう。
だから、考えることから一度離れてもいい。
やめてみたら案外、楽に生きられる気がする。
楽な生き方を求めているわけじゃない。
お金持ちで、自信があって、周りからも認められてそんな完璧な生き方がほしいわけでもない。
誰かとぶつかったり、自分を傷つけたり、なんだかみっともない自分が嫌になったりする。
だから、誰かの顔色を伺って自分に何も無いことを願う。
そんなに苦しまないで毎日を過ごせるだけで、充分満たされる。
人間には、自分が普段知っている所と知らない所2つがあると思う。
無理して相手に合わせた所でいずれそれが違うとなる。だったら結局、ダメじゃんってなる前に肩の力を少し抜いてみるか。
始めからお互いが引き合う様に出来ていることの方が珍しいだけだから、あれやこれやと考えるのをやめてしまうか。
やめてもいいと思えれば、楽なもんだ。
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